人のふり見て我がふりを見返すべきよ
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[20160118]
北上市内には伊達と南部の藩境塚跡がいくつかある。
立花にある市立博物館敷地内、北上川を渡って相去の街、
そしてずっと南西に行って千貫石堤の近く。
そもそも藩境に塚が築かれるのは珍しいと言うのだが、
この事だけでも伊達と南部の確執が見て取れる。

ところで、この相去と千貫石堤の間にも藩境塚跡があると聞いて地図を眺めると
確かに六原扇状地の中にも史跡としての藩境塚跡の印がある。
そしてその南に藩境に沿うように家が一列に並んでるのに気づいたが、
ここ六原は戦前の軍馬補充部、現在の農業短大があったり入植地的雰囲気があり
そういった感じで整然と並べられた農家なのだろうと思った。

しかしそこの町名が上三十人町、下三十人町なのをみておや?と思ったのだ。

そもそも(人数)町というのは仙台の街に顕著なのだが、
城下町の街道の入り口などに配された足軽町のことである。
なんで城下町にあるような足軽町がこんな扇状農地の真ん中にと思ったのだ。

調べてみるとやはり伊達藩によって藩境に沿って一列に配された足軽屋敷だった。


三十人03

下三十人町。屋敷の背後に屋敷林がある。


三十人02

上三十人町。やはり屋敷林が続く。
屋敷林は伊達の地ではよく見られるが多くは散居しており
このように続いてるのはやはり珍しい。

ググると戦後頃にここをちょっと調査したという報告書が見つかるが
それによれば当初配されたのは町名通り30戸。調査時その子孫は7戸ほどだったと言う。
現在は屋敷林は残るが家の無い区画もみられる。
また足軽町とはいえ畑や田も持ち農作していて、
そもそも前途の千貫石堤は同時期に伊達藩によってこの六原扇状地の為に作られたのだが、
屋敷の特徴として厩は母屋と別だったという。
この辺では南部の曲り家は勿論、伊達の農家も厩も一緒の直家だったというから
そこは武家の屋敷だったわけである。


三十人01

その北にある藩境跡。
右手向こうに見えるのが下三十人町の屋敷林。
戦後頃まではここも土塁が築かれていたらしい。
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[20140805]
一関市川崎町から千厩町に向かう国道、
山間部に入って千厩川の蛇行が始まる辺りに「割山」という地名がある。

割山1

地図にも載ってない地名だが、そう言えばこのすぐ近くに
国道のすぐ脇にあったケヤキを近年の道路改良で切り倒さずに
道路の真ん中に残したという「割山のケヤキ」がある。

さてこの辺り、走っていた時には気付かなかったが
ぐぐるの航空写真を見ると蛇行してる川をショートカットして
締め切った部分が残ってるように見える。
平野部なら川を直線化して蛇行部分が残ってるってのはよくあるが、
ここは峡谷の連なる山間部である。

まさかと思って再度行ってみたがやはりそうだった。

割山3

締め切られてため池になった部分。じゅうぶん峡谷だ。

割山2

ショートカット部分。
いかにも切り崩したような跡があり蛇行による河床の高低差がそのまま滝になってる。

割山4

上流側の締め切った部分。
採石も止めて久しい感じだが、向こうに見える右岸がかなり切り立ってるのが分かる。

この辺の国道は近年、蛇行を直線的に突っ切るように改良されたが
それまでは蛇行に沿って通っていた。
しかし戦後すぐに撮られた米軍の航空写真を見ても
この部分だけは既に川のショートカットがされている。

もともとこの部分は鞍部になっており上流側の崖もあって
右岸に沿って道を付けるよりはいっそここを崩した方が、
そして橋を2本かけるよりは川もショートカットさせて
堤にしてそこに道を通した方が、といったところだろうか。


ところでこの滝には「色の御前滝」という名前が付いていて物語まである。
曰く「京の都から小次郎を慕って旅してきた色の御前が、小次郎の死を告げられて失望し
身を投げたと伝えられる」
こんな話を聞くとかなり昔からこの滝はあったように思われるが
では、いつ頃出来たものなのだろうか。

しかし「色の御前」でググっても多賀城市にある「色の御前社」とも呼ばれる
南宮神社のことしか出てこない。
この南宮神社は明治41年に村社総社宮に合祀されたが、
その後南宮地区に悪いことが続き祈祷してもらったところ
色の御前が出てきて合祀が嫌で戻ってきたがお宮が無いと言われ
土地の人は慌ててお宮を作り直したのだという。

この頃、明治から大正にかけては、明治初期には水運や鉄道に力を入れていたのだが、
日清、日露戦争と続き軍事的な意味もあって全国で車道が整備されていった頃だ。
藩政期の街道もこの部分は北側の山の中を通っていたが、
車道化で勾配の少ない川沿いに作るに当たり、前述のようにここは川を切り崩し滝が出来た。
その時多賀城で流行っていた「色の御前」の話を持ってきたのかもしれない。

もしかすると「割山」という地名も山を割ったということでその時に付いたのかもしれない。
いや、これらは私の想像だけどw

追記:
色の御前の物語の詳細が分かった。
見る目が淵物語といい、

千厩の小次郎は京に出て色の御前と恋仲になり子供も出来る。
小次郎はその報告もあって一度千厩に戻るがそこでは縁談話が待っていた。
なかなか戻らない小次郎を案じて色の御前は乳飲み子をおぶって千厩の家まで行くが
正に祝儀が行われるところだった。事情を察した縁者が
「小次郎は死んだ。今から葬儀をするところだ」と、これからのことを考えた方がいいと追い返す。
しかし絶望した色の御前がこの淵を通りかかった時
水面に映った背中の子供の顔を小次郎と思い込みそのまま淵に飛び込んでしまった。

滝ではなく淵ということになってる。
やはりショートカット以前は蛇行する川の淵だったのだろう。
すると多賀城市の社の物語の方がここのパクリということに?
[20131203]
ソニーBRAVIA 4K のCM



最近、中尊寺の能楽堂でCM撮りが行われたってのはローカルニュースにもなってたけど
遠野バージョンもあったのか!?


さて、それではそれぞれの風景をw

赤ラインのセーラー服は遠中? 他にも市内でこの制服のとこあるっけ?
おなじみ中村のお堂。
馬は荒川高原の何処か?
遠中なら青名札は3年生か。この川は何処だろう? 護岸がされてないのでけっこう上流だけど
流れもゆるいので割りと特定できそうだけど。
下前川原のバス停。
かつての大出小中。
最後はもちろんめがね橋。

下前川原のバス停は最初悩んだw
住田町バスの標識もあるし後ろの山の感じから青笹辺りの気はしてたけど
前川原あたりはもっと家があるイメージwなもんで排除してた。
しかし歩道があるのはこの辺しか無いな、と。

下前川原バス停

六角牛山が映ってれば一発だったんだろうけどw
当初は六角牛山も映すつもりだったのかも。


ところでこのCMのプレスリリースとか見ると
「歌のある風景」篇ということで日本の原風景とそこに営む現地の人々の姿を映した
とのことらしいが、どうせ遠野は"原風景"だらけだw

というか都会人に言わせると今時、小中学生が名札付けてるのも"原風景"らしいw
[20130307]
トヨタのCM、ひょっこりひょうたん島の「大槌町」篇



ReBORN SPECIAL SITEへ

大槌の蓬莱島がどうのはとりあえず置いといて、
一番最後のアクアの走行シーンが

かっぱロードじゃないか!?

かっぱロード

思わず検証撮影してきましたw

昨日初めて最後まで見た時
この新しめのガードレールにこの直線はもしや、と思ったのだけど
決め手はやっぱり高清水や物見の山並みですよねー。


ところで、と後になってしまったけど
蓬莱島も震災前は堤防で繋がってたはずだけど、また島になってしまったのだなあ、と。

77年の航空写真では既に繋がってた。48年のでは勿論繋がって無い。
井上ひさしが釜石に居たのは53年から56年とのことだが、その頃もまだ繋がってなかったと思われる。

井上は定内にある国立療養所に勤めていて、
医療費の集金で橋野などに行ったようなことも「新釈 遠野物語」にあるので
当時の二級国道筋である赤浜も勿論通っていたのだろう。

このCMも赤浜で撮っていると思われるので、
皮肉な事ではあるが今の状態が井上が見た蓬莱島と同じということになるのかもしれない。


ちなみに大槌北小のあった仮設商店街から「行ってみましょうか」と言って走ってる道は
蓬莱島の見える赤浜とは反対方向、大槌駅の辺りかと。
しかも南方向から海に向けて走ってる。

まあTVの演出ではよくある事だw
[20120720]
石巻市、旧河北町大川地区へ行ってみた。
ちなみにこの辺、大川小学校、大川中学校、大川郵便局と「大川」という名が残るが
「大川」という地名は無い。
河北町に合併する以前の大川村時代の名残りである。
大川小学校や大川郵便局のあったところは釜谷という字名になる。

大川01

大川小学校。
校舎の前には祭壇が設けられていて、ほぼ切れ目無しに人が来ては手を合わせていた。

多くの人は「裏の山に逃げていれば…」とは言うが、祭壇の前から振り返って見れば…
と言うか学校の目の前には

大川02

小高い新北上大橋の袂が見える。
もちろん以前は街並みもあって直接は見えないだろうが、
実際この辺では山以外では一番高い所だ。
やっぱり写真ではスケール感が損なわれるが見た感じも結構高い場所に感じた。
これは誰でもとりあえずそこに逃げようと思うのも宜なるかな。

ここは地元では三角地帯と呼ばれており、津波などの避難場所と認識されていた臭い。
地震後、小学校から子供を引き取り車で上流の自宅へ帰ろうとした母親が、
「津波が来るからここ(三角地帯)に止まるように」
と警察に促されたが振り切って帰り結果的に助かった、という話もある。
これらはネット上で見つけた伝聞ではあるが、
当初、教頭は「(子供たちを連れて)裏山に避難出来ないだろうか」と提案していたらしい。
しかしそれは小学校に集まってた親や付近の住民に「津波はここまで来ない」と一笑された。
その後、長面方面を見に行っていた市職員が松林を越えて来る津波を見て急いで戻って来る。
体制も立て直せないまま、やはりまずは三角地帯に避難しようとした結果なのだろうか。

マピオン地図

更に長面の方に行ってみる。

大川03

両側、川と言うか海だ。
道の左側、一段低い所が本来の道床。
満潮時などにはここも水没するのだろう。

マピオン地図

大川04

この辺は地盤が高いのか水も迫ってない。道路もかつての物そのままだ。
しかしこの向こうには田畑が広がってたはずだ。

マピオン地図

大川05

長面。向こうは長面浦だがここら辺も海の中と言った雰囲気。
復旧工事も盛んでこれ以上進むのは躊躇われた。

マピオン地図


ついでと言ってはなんだけど、新北上川大橋。

大川06

落橋部分も仮設で繋がったが、そのまま上流側を見ると…

大川07

落ちた部分の残骸が今でも…
この残骸はグーグルの空中写真でも見られる。

実は、新北上川大橋は何度か通った事はあるものの、
長面の方までは仙台時代も興味があったけれども行ったことが無かった。

震災の前に行っておきたかった…

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